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映画『牛泥棒』の感想/「疑わしきは罰しろ」をマジでやるとこうなる/多数決の光と闇

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映画『牛泥棒』を観たのでその感想を述べます。

 

 

 

 

 

映画『牛泥棒』の感想とネタバレ

 

 

 

「疑わしきは罰しろ」をマジでやるとこうなる

 

あのクリントイーストウッドが好きな映画。それがこの『牛泥棒』。

 

1943年に作られた映画なんだよね。そう、戦時中にアメリカで作った映画。

 

白黒映画だし、画質は悪いし、知らない俳優ばっかり出てくるし、普通だったら観てない映画。ぼく平成。もろ昭和。むしろ戦中やんけwww

 

でもクリントイーストウッドが傑作と思っているだけあって、すごく面白かった。

 

1943年と言えば日本はガダルカナル島で戦って、アッツ島で戦って、山本五十六が死んで、イタリアが降伏した年。その頃アメリカはこんな映画つくってたんだなあ。ちなみに映画の最後では「戦争のために募金してください」みたいな字幕が出てきます。時代を感じました。

 

で、中身ですよ中身。これがまた面白いんだわ。70年以上経ってるのに、色あせない面白さ。確かにクリントイーストウッドが褒めたってのも分かるね。見る価値のある映画だった。

 

要するに「冤罪」を扱った映画。

 

ある町で牛泥棒が出たって噂が広まるんですよ。牛飼いが殺されて、牛が盗まれた、と。情報が入るのね。

 

その牛飼いの友達がもうそれはそれは怒って、力こそパワー!ヒャッハー!みたいなマッチョな住民を老若男女集めて、牛泥棒狩りに出かけるわけね。

 

ローラー作戦。人海戦術で牛泥棒を捕まえようぜって話。まだ山を越える前だから、すぐに追いかければどこかで捕まるはず。そんな勢い。

 

住民たちが「正義」の心で牛泥棒を探して、そんな中で「野宿していた男たち3人組」を見つけて、こりゃ怪しいぞってことになり、その場で吊るし首にして殺しちゃうんだ。これがこの映画の肝。けど、なんとそれが全くの人違い。冤罪だったことが明らかになって終わるんだよこの映画。

 

牛泥棒は実は勘違い。しかも牛飼いは殺されて無かった。牛泥棒も別にいてすでに捕まっている。本当にただ野宿していただけの人たちを「人殺し、かつ、牛泥棒」として住民たちが死刑にした。

 

冤罪だと分かって終わる映画だから、実に気分が悪いこと悪いこと。とんでもなく嫌な気分になる映画。でもそれがある意味いい映画だった。すごい印象に残る。

 

低予算の映画らしいんだけど、まあ戦時中だしそんなもんなんだろうけど、予算が無いなかで本当によく考えられているストーリーだった。演出とか脚本で不足を補っていて、すごく面白かった。

 

当時も今も、裁判って制度があるわけだから、牛泥棒を私人逮捕、現行犯逮捕するところまではOKだとしても、勝手に処刑したらダメなんだよね。それは殺人。

 

その前提がありながら、牛泥棒を殺すか殺さないかで住民が悩むんだよ。う~ん、悩むのは主に7人なんだけどさ。

 

そのほか圧倒的多数の「吊るせ!」派と「裁判にかけるべき」派が終始議論してる感じの映画だったなあ。

 

裁判ものが好きな人におすすめしたい。僕も裁判もの好きだから結構楽しめた。

 

ポイントは、「有罪派」と「無罪派」が争ってるわけじゃないってこと。大事なのは「犯人は絶対にコイツら。今すぐ吊るせ」派と「犯人かどうかは裁判で決めるべき。そこまで言うなら保安官に引き渡して裁判を受けさせよう」派の戦いなんだよね。

 

後者の人たちは、この場で吊るし首にするのは大反対。だって犯人かどうかまだ分からないから。証拠もどれもイマイチ説得力に欠けるし。「推定無罪」って言葉が脳裏をよぎるね。そういう知恵だと思う、推定無罪は。

 

www.moelogue.com

  

もうね、牛泥棒として処刑される人たちが哀れで哀れでしょうがないよ。視聴者としては、確実に「無罪」だと分かったうえで観てるからねこの映画。

 

野宿してた人たちも、最初はそりゃあまったくあずかり知らぬことだから「犯人説」を否定するし、無実の証拠も出すし、どんなこと言われても反論して自己弁護するんだけど、圧倒的多数の「有罪ありきの疑いの目」にはどれも怪しく見えちゃう。

 

もう、最後の最後は命乞いだからね。マジで。あれは見ていてつらかったなあ。

 

後半はもう「いつ処刑するか」という時間の問題になって、「この場で処刑」は既定路線になっちゃうわけ。悲しい。

 

一応、処刑派も人の心を出して、せめてもの情けと言うことで譲歩し、最後のお祈りを許すとか、家族に手紙を書くことを許すとか、最後の飯を食わせるとか、タバコ吸わせるとか、酒飲ませるとか、そういう優しさというか慈悲はあるんだけど、そもそも犯人じゃないからねwww どんな優しいことされても無意味なんだよ。意味がない。

 

この無力感。圧倒的な力。これが本当に怖い映画。

 

犯人とされた3人組に感情移入して観ていると、吐きそうなレベルで無力感を味わえるね。

 

だって何を言っても「いやお前が犯人だ」って言われるだけだからさ。もうホント辛い。

 

そんで、やっぱり処刑されちゃう。覆らなかった。

 

3人吊るし首にして殺して、これでひと安心、と胸をなでおろし、帰路に就いたところで保安官が現れて事件の解決を知るんだよね。つまり、ついさっき殺した3人の男は全くの無実で冤罪だったことが分かるわけ。

 

このあとの動揺の仕方ね。あれはリアルwww

 

名前忘れたけど、「おれは少佐にそそのかされただけだったんだー」とか言うクズ。責任逃れしてて壮大に笑った。ああいうやつムカつくわ。架空の人物だけどイラっとした。おめえさんざん殺せ殺せ言ってたじゃねえかと。

 

でもって、テトリー少佐ですよ。まあテトリー少佐がいい人なのか知らないけど、少なくとも今回の私刑の首謀者だからね。仕切ってたのはこの人。公明正大な装いをししつつ、やっぱり「犯人」と決めつけてるんだよね。裁判長の皮をかぶった検事。

 

検事としては疑うのが仕事だけど、裁判長も兼ねたらだめなんだよね。そもそも私刑自体がダメだけど。

 

事件の後で、自分の息子(私刑に反対した7人の一人)にすごい罵り方をされて最後自らを裁く。つまり自殺しちゃうんだよね。

 

スカッとするけど、めちゃくちゃ後味悪いよこの展開……。いやまあ、テトリー少佐が悪いんだけどさ。みんなのリーダーだからこそ、慎重に行くべきだった。抑え役になることも必要だったんだよね。ちょっと感情移入した最期については。

 

多数決の光と闇

 

「多数決」について触れておこうかな。

 

上に書いたように、野宿していた男3人は「牛泥棒」及び「殺人犯」として処刑される。

 

でもその直前に多数決が行われるんだよね。この場で処刑すべきか、裁判にかけるか、で。

 

この辺のシーンが印象的だったなあ。

 

僕ら(観客)は神の視点で、真実を知っているんだよね。その人たちは牛泥棒じゃない、と。

 

だから、多数決の結果、圧倒的多数でこの場で処刑が決定されるわけだけどその判断は結果的に間違っていたことになるわけよ。

 

逆に、この場合は「裁判にかける」が正解で、少なくともこの場で処刑せず町まで連行することにしていれば、途中で保安官に会って事件の真相を知り、許しを請うことだってできたはずなんだよ。

 

ところが、これが多数決の「力」。

 

もともと住民という「仲間」の人間関係があって、そのうえで多数決をしているわけだから、少数派も多数派の意見に従わざるを得ない。「多数決で決める」こと自体には暗黙裡に同意したんだから。

 

多数派にとっても、ガタガタとうるさい少数派を黙らせるにはいい仕組みだよな多数決も。あの結果で黙るんだから。

 

そういう意味で、「多数決」はすごい力があるなと感じた。戦時中の映画だから、プロパガンダよろしくその点を強調して作ったのか定かではないけれど、いま見てもいい映画だなと思う。

 

多数決は力だよね。その力を善の方向にも、悪の方向にも向けることができる。どっちに向けるかは運用する人々次第。多数決自体に善悪は無い。ただ力が存在するのみ。

 

そういうことを教えてくれる映画だったなあ。

まとめ

 

冤罪が判明した後で、住民たちは「罪の重さ」に押しつぶされそうになりながら、酒場で一杯やるんだよね。気を紛らわすために。

 

そこで、処刑された男の手紙が披露されて、ほんのちょっとだけ救われた気持ちになって終わるんだこの映画は。

 

男が、自分の奥さんのために書いた手紙なんだけど、なぜこのような不幸なことが起きたか説明していて、恨み事は書かれていない。意外にも。

 

これが唯一の救い。

 

でも完全に心が癒されることは無くて、無実の人を圧倒的な数の暴力で縛り首にした事実は消えないんだよね。そういう罪深い映画でもあったと思う。