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在宅ワークで生きているアラサー男のブログ

「民主主義」って何?/選挙は「内戦」、政権交代は「革命」だ

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政治は「右翼」がいいのか「左翼が」いいのか、という単純な話では無い。


右翼も左翼も「全体主義」という意味では「自由」を失う結果になるからだ。


また「民主主義」もそれ自体が何か特定の方向性を示してくれるわけではない。
「主義」と言いつつ、「民主主義」という実態は存在しないから。

 

だが「民主主義」は中身が無いからこそ、我々に常に問いかける。
「君はどう思う?」と。

 

僕はここを愛おしく思っているのだ。

 

 

民主主義って何ですか?

 

結論:民主主義(democracy)とは、「枠組み」のことである。

 

民主主義――。
選挙の季節になると必ず聞く言葉。


学校でも必ず習うこの言葉、その名も「民主主義」。
しかし、よく聞くわりには、結局何なのかよく分からない。

 

でも「民主主義」を否定すれば、たぶん選挙では勝てないだろう。


現職ならば、落選確実だ。
どうやら民主主義はいいものらしい。


民主主義って一体何なんだ?

 

語源

 

語源から考えてみる。


一般に民主主義は「デモクラシー」と訳される。
綴りは「democracy」だ。

 

由来は古代ギリシア語のデモクラティア(democratia)と言われている。


さらに遡ると「デモス(demos)」+「クラティア(kratein)」で「デモクラティア(democratia)」。


前者のデモスは「人民」。後者のクラティアは「統治」という意味である。

 

みんなで考える政治

 

何となくでいい、イメージでいい。考えてほしい。


つまり、人民=人々=一般市民による、統治=政治ということになる。


要は、今ある政治の仕組み、選挙の仕組み、そのものだ。僕らが普段イメージする政治。それでいい。


「人民の人民による人民のための政治」なんてフレーズをイメージしてもらっても構わない。

 

でも、民主主義に価値観は無い。この点を強調したい。


すでに述べたとおり、民主主義の意味は「一般市民による政治」程度のものだ。大した話じゃない。


言い換えると「多数の人々が集まって何らかの解決策や結論を出すプロセス」という感じだ。

 

民主主義に「主義」無し

 

民主主義はそういうしくみ・制度・アプローチのことなのだ。


強調するが、内容そのものではないぞ。価値観ではない。
システムとして、方法論としての「民主主義」なのだ。

 

何とか主義という言葉は、他にもたくさんある。


一連を挙げると、


「自由主義( liberalism )」
「社会主義( Socialism )」
「共産主義 (Communism )」
「民族主義( Ethnicism )」

 

などがある。

 

みんな「イズム(ism)」だ。


しかし「デモクラシー」は「シー」ではあっても「イズム」ではない。


主義無き主義。だからそれだけで何かができるわけではない。

 

自分のことは自分で決める

 

人数で言うと、多数による多数の支配。


自分たちを支配するのは自分たちしかいないという感覚だ。
誰に決めてもらうわけでもなく。決めるのは自分。これが民主主義。

 

王様や独裁者、もしくは人気の政治家がたった1人でズバズバ物事を決めていく政治でもなく


貴族や一部の政治家といった少人数が、密室に集まって決めていくシステムでもない。

 

民主主義においては、支配する側も、支配される側も存在しない。


ただし、効率の観点から役割分担はあるだろう。だから政治家とそれ以外の人が存在している。


でも選挙という仕組みを使えば、「総入れ替え」することができる。


昨日まで威張っていた政治家だって、落選すればただの人になる。

 

言えますか? 王様に「退位を」。独裁者に「辞任を」。

 

当たり前のようで、これはすごいことだ。
大した話じゃないと言ったが、大した話。

 

想像してほしい。


例えば、王様相手にこんなことがことが言えるだろうか。


「陛下、あなたは政治に失敗しました。なのでクビです。退位してください」
「新しい王様を用意しました。あなたは明日からただの国民です」

 

悪逆非道な独裁者に、面と向かって言えるだろうか。


「あなたは政治に失敗しました。辞職してください」

 

王様や独裁者=与党を政権から引きずり降ろして、


野党=与党じゃなかった人たちで新しい政府をつくるのは、民主主義が根付いていなければ大変なことだ。


それはもうめんどくさい。お金も時間も労力もかかる。

 

しかし、歴史的には人類はそれを何度も繰り返しやってきた。


革命とかクーデターとか、暗殺とかいう名前のやり方によってだ。
そこには必ず血が流れる。穏便には済まない。

 

一度辞めた独裁者は返り咲けるか

 

でも仮に王様や独裁者がわりといい人だったとしよう。


「そうか。じゃあ辞めよう」と言ったとする。


はたして彼らは一般市民の暮らしができるだろうか。


昨日まで散々政敵を殺しまくってきた独裁者が、
「辞職しました。どうぞよろしく」と隣に引っ越して来たらどう思うだろう。


気が気じゃないだろう。

 

さらに、再び政権の座に就くことはできるだろうか。


かつての王様や独裁者が一生懸命勉強して実力をつけて、返り咲くことができるだろうか。


出来るかもしれないが、容易ではないかもしれない。また血が流れるかもしれない。

 

政権交代という「人命」の節約

 

民主主義ならどうするか。簡単なのは選挙だ。


与党が敗れれば、野党が政権を取る。これは政権交代ということになる。
わが日本でも前例がある。

 

だが、民主主義が根付いているからこそ、選挙ができる。


消極的にせよ、民主主義を一応受け入れているからこそ、政権交代ができる。
選挙で負けても血は流れない。議席は失っても命までは失わない。

 

民主主義が根付いていなければ選挙はどうなるか。内戦勃発だ。


敗れた与党A党支持者は野党B党の本部を襲撃すればよい。結局選挙は無意味なものとなる。

 

政権交代すればいいというものでも無い

 

返り咲けるかどうかという問題も、真に民主主義的なしくみや意識が共有されていれば、それは容易だ。

 

下野した与党も、野党として評価されれば、再び政府を作ることができる。

 

イギリスの保守党と労働党、アメリカの共和党と民主党のような関係だ。

 

政治は決めなければならない。与党のポリシーに従って判断し、政治を前に進めなければいけない。いつまでも考えている暇はない。

 

しかし与党が選択を誤っているとしたら、野党に代えなければならない。与党も自信があるなら堂々とそれを迎え討てばよい。

 

負けるなら、潔く。野党のお手並み拝見を決め込めばいい。次の政権交代を狙えばよい。誰が正解なんて誰にも分らない。

 

決めるのは自分。決めるのは選挙民。

 

評価されるよう、繰り返し主張すればよい。

 

さいごに

 

選挙は「剣の一撃」や「銃弾」を、1枚の「投票用紙」に代えている。


落選は死の偽装。政権交代は血の流れない革命だ。

 

民主主義は、「みんなで決めよう」とする枠組みのことである。
何が答えかは決まっていない。決めるのは自分だ。

 

でも本当にみんなで決めたら何も決まらない。だから政治家を選ぶ。

 

民主主義が根付いた国に生まれた我々に、民主主義は「どう思う?」とは問いかけるが、「ああしろ。こうしろ」とは主張してこない。

 

優しいようで、実に厳しい。失敗すれば自分のせいになるのだ。

 

「誰かに決めてもらいたい」は「失敗したら人のせいにしたい」の裏返し。

 

有権者は、そういう誘惑と常に戦わねばならない。